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  • うめざわしゅん

scrap and build

ベタベタした粘着質の諸々の欲望に取り囲まれた中心にゐるのが「自己」といふのが直観的な感覚だが実際に中心にあるのは無。ドーナツの穴であり空。物質がなくなれば消滅する錯覚なので、ならばドーナツ部分こそ自分では?と思ひたくなるがそこに一切関与できないのに何故それが「自分」と言へるのか謎だ。自分の欲望は自分とは一致してゐない。(自分の欲望は自分とは一致してゐないと思ひ始めたらおめでたう、患者の仲間入りだ)

その正体は快を得て不快を避けるだけの神秘もクソもない本能でありそれが約束するのは破滅する未来だけである。その袋小路から抜けようと私たちはおそらく他在に向かふが他在も全く同じ「無」を核とした妄想の塊なので破滅はより悲惨なものとなる。違ひは、他在と合はさり出来上がるイリュージョンは偶然の要素も組み入れ実質無限になるといふことだ。ここに一分の隙間がある?

自他を静的、固定的な何かとして捉へたときに関係は破滅への一歩を踏み出す。まづ動的なもの形のない無限に柔らかいものとしての自我が要る それを何にも繋がらないatomとして終はらせてはいけない。覚者になるか精神病院に行くことになる(どちらも御免だ!)

原子を縛る鎖はないが自由もまたない。偶然のみに支配されたところに自在は存在しえない。奴隷ではなくなるかもしれないが解放の可能性もゼロに。自我を完全に解体して組み立て直す。

ここでやうやく我々は属性、言葉、社会構築物である諸々の概念を桎梏ではなく解放の足場としなくてはならないことに気づく。

それら概念にこちらが客体化されずに相対的なツールとして操ること。精神の政治学として。「絶対」といふ仮構をテコの支点とすることで現実の中で「私」の座標をリアルタイムで知る。現前する生の実践の中で「私」を明らかにすること。これには無意識による絶妙なバランス感覚とセンスが必要だ。

刃の切先で軽やかにダンスを踊ること。


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